『教育』No.891②

 


ちゃんと考察しようとか考えるといつまでも更新しないので、気になったこと、感想等を簡単にまとめることにします。

 

引用:黒字

共有したい疑問:青太字

その他感想等:青字

 

 

  

特集1 学びは遊び、遊びは学び

福田奈奈「クレヨンで描いた虹」

・「先生、これでいいですか」と、図工の授業で子どもに聞かれたことはないだろうか。

・「遊ぶ」という言葉が連れてきてくれる自由さに、子どもたちは惹きつけられて、様々なことを学んでいく。遊びながら実験して、結果を自分なりに考察して、学んだことを人に伝えようとする。そこには子どもの自然な学びの姿があった。

・子どもは、正しい話し方や文法を覚えたから話せるようになるのではなく、話すことをとにかくたくさん試しながら、自分の言葉に対する周囲の反応を見て学んでいく。

・走り続けることに疲れたときは、子どもと一緒に、目的地のない散歩に出かけてみてはどうだろうか。きっと新たな発見や学びが、子どもの歓声と共に飛び込んでくるはずだから。

 

渡辺恵津子「文化としての算数をEnjoy!

・「学校に行くのは楽しい」という9割近い小学生(全国学力状況調査2015)。「楽しい時間」のトップは「休み時間」。「給食・行事・放課後」と続いて最下位が「授業」です。

・五感を駆使した遊び体験は、教室の中に共通のイメージやことばを生み、どの子も同じ学びの地平に立つことを保障します。遊び体験は、討論しながら自分を認め、他者とつながる大切さも学べるのです。

・授業の導入は楽しいゲームや教具を持ち込んでも、数の世界になると「わからない、つまらない」という子どもたちが出てきます。それは、ゲーム(遊び)や「楽しさ」を、学習をうまくすすめるための“つなぎ”にしているからです。子どもたちが望む主体的で自発的な学習は「問い」から出発します。

・子どもたちは遊びの中で数量体験を重ねて身につけた数量感覚を基礎に学習を通じて生活概念を数量概念にしていきます。教科としての算数も共通の楽しい体験が「問い」を育て、共有することばやイメージを生み、それを土台に討論して解き明かす文化としての算数の学びを創るのです。

 

※(出典)全国学力・学習状況調査 平成27年度

 これが元のデータから作成したグラフです。ただ、全国学力・学習状況調査では、何を楽しいと感じているのかという質問は含まれていませんでした。西東京市で同様の調査を見つけました。

https://www.city.nishitokyo.lg.jp/kosodate/kyoiku/kakusyuresearch/kk26-30_a-h_houkokus.files/a-2_pdf.pdf#search=%27%E6%8E%88%E6%A5%AD%E3%81%8C%E6%A5%BD%E3%81%97%E3%81%84+%E4%BD%95%E5%89%B2%27

しかし、渡辺さんが実際に参照したデータが見つけられませんでした。ご存知の方は教えていただけると助かります

 

森末佳代「わらべうたを楽しむ子どもたち」

・人と人とが向かい合い、身体を接触させ、ルールを守ることで成立するわらべうたを行うことで、子どもたちの社会性がよく見えてきました。

・子どもたちは一人ひとり、様々な思いを抱えながら学校に来ています。そんな子どもたちが遊びの中でお互いの違いを感じるからこそ、ぶつかり合い、協力しながら、仲間として、クラスとして成長していけるのだと思いました。

 

栗原茂「自分の物語をつくる」

・インプロ(即興表現)を通して、その考え方である「相手にいい時間を与える」「失敗してもいいんだよ」「ゆっくりしよう」を伝えたい

 

小山将嗣「遊びの中で育つ―レク係のアカト」

・「子どもの最大の仕事は遊ぶことである」。遊びの中で友達との関わり方を知り、運動能力や神経を発達させ、自分を解放して思いっきりを楽しむ。また、遊びの中では勉強の得意不得意や生活水準など関係なく、誰もがみんな一緒に楽しむこともできる。

・学校の中でさまざまな友達と関わることで、社会性を自分自身で学んでいく。その中で当然トラブルも起きる。しかし、それを話し合って認識していく時、遊びが学びに変わるのである。他者との関わりの中で、一体感や有能感を感じ、自分を解放する中で楽しい経験を積み重ねることが、幼少期には必要不可欠な「仕事」なのである。

 

楠凡之「豊かな遊びが「学びの基礎」を育む」

・子どもが主体の遊びが豊かな生活的概念と学びへの意欲を育む

・自分の視点を「脱中心化」したり、様々な視点を協応させていく力を育む

・子どもたちが生身の遊びや生活の中で自分の思いとは異なる他者の思いにぶつかり、その中で悔しさや悲しみなどの感情も体験しつつ、お互いの思いや願いを協応させて問題を解決していく体験は、豊かな学びの基礎となるものである。

 

 

「遊び」=「子どもの最大の仕事」

子どもは、遊びの中で友達との関わり方を知り、運動能力や神経を発達させ、自分を解放して思いっきりを楽しみます。他者との関わりの中で、一体感や有能感を感じ、自分を解放する中で楽しい経験を積み重ねることが、幼少期には必要不可欠な「仕事」です。

 

①遊びは自由(子どもの自然な姿)

子どもたちが望む主体的で自発的な学習は、遊びから見つけた「問い」から出発し、豊かな生活的概念と学びへの意欲を育んでいくことになります。子どもたちはその自由さに惹きつけられ、遊びながら実験し、結果を自分なりに考察して、学んだことを人に伝えようとします。そして、遊びの中で、様々なことを学んでいきます。

 

②遊びを通して学ぶ社会性

人と人とが向かい合い、身体を接触させ、ルールを守ることで成立する活動を行うことで、子どもたちの社会性が見えてきます。

 

遊び体験は、討論しながら自分を認め、他者とつながる大切さも学べるのです。子どもたちは一人ひとり、様々な思いを抱えながら学校に来ています。

そんな子どもたちが遊びの中でお互いの違いを感じるからこそ、ぶつかり合い、協力しながら、仲間として、クラスとして成長していけます。

その中で当然トラブルも起きますが、それを話し合って認識していくとき、遊びが学びに変わります。自分の視点を「脱中心化」したり、様々な視点を協応させていく力を育み、社会性を学んでいきます。

 

子どもたちが生身の遊びや生活の中で自分の思いとは異なる他者の思いにぶつかり、その中で悔しさや悲しみなどの感情も体験しつつ、お互いの思いや願いを協応させて問題を解決していく体験は、豊かな学びの基礎となります。

 

 

行事も「子どもの最大の仕事」

 行事は、遊びの延長だと思います。運動会や合唱祭ではクラスがまとまることや勝利を目指して、問を見つけその答えを考えたり、問題の解決に向けて苦悩していきます。リレーの順番一つをとっても、頭を使えば(工夫をすれば)、クラス全体のタイムは速くなります※。バトンの受け渡しを練習するのも良いと思います。

 

中には、行事なんて面倒という人も(教師だとしても)いると思います。でも、そういう人ほど、いかに周りと喧嘩せずにさぼるかを考えていたと思います。行事に真剣に取り組むだけが正解ということはないです(むしろ行事大好き教師の方は、行事嫌い生徒のことを考える必要があります)。

 

しかし、そういったことも含めて、価値観が違う中で、一つのことに真剣に取り組み、自分と他者の感情や要求に折り合いをつけて、集団の目標を達成しようとする。そして、社会性を学んでいく。それが行事ですよね。

 

※バトンの受け渡しは練習以前に、全員がもらう手と渡す手を決めておくといいです。また、同じ手で渡そうとすると、足と足がぶつかりやすくなる、あるいはぶつかりそうになって走るのが遅くなるため、「左手で相手の右手に渡す」等、全体でルールを統一すべきです。あと、全体の順番は、速い人と遅い人を組み合わせると、速い人はより長く、遅い人はより短く走ることで、全体のタイムが伸びます。さらに、大半のクラスは最初と最後の方に速い人を集めます。そのときに勝負できるように工夫するには、速い人の中でも体力のない人(50mはいいけど100mは遅い人)を遅い人としてグループわけして、速い人と交互にします。すると、最後の方は全員速いのに、適当に速い人を集めたクラスより速くなります(速い人を活かせます)。以上は、実際に私が中学3年生の運動会で使用した方法です。

 

社会性だけでなく、想像力や、知識等を学び、最終的には(話題の)課題解決能力を育むはずです(というか、問題解決能力を高めたいのに教科指導ばかり内容を増やすのは必ずしも正しくないことを伝えたいです)。

 

私は行事での創意工夫(考えること)が大好きですので、これが仕事になるならば、行事でより良い成果を出したい全国の児童生徒に助言・援助し(一緒に考え)たいですね

 

いずれにしても、行事になると、遊びの自由さは自治に発展していると思います。遊びよりも明確に、集団での意思統一やきまりづくりが求められているからです。

学校行事は改めて大切だと伝えたいです。

 

そのような学校行事ができないかもしれない今日、YouTubeではできなかった人のために、卒業式が行われるそうです(3月にあったように記憶しています)。

できれば、運動会や合唱祭に代わる(それ自体はできないが、学校行事のように子どもたちが協力して揉めながらも成長する)イベントが出てきてほしいです。もしくは、主催したいです。

 

 

 最後に

『教育』を読んでいない方も読んだ方も、特集1「学びは遊び、遊びは学び」についてのご意見、ご感想をお願い致します。特に、私の感想等に対しても、思うところがあればお気軽にコメントしてください。

知り合いの方にも紹介してくれると嬉しいです(仮面ライダーの記事もありますが、気にしないでください。教員採用試験の勉強が落ち着きましたので、月刊誌『教育』に関する記事を増やしていく予定です)。 

『教育』No.891①

読み終わっていましたが、全くブログを更新していませんでした。

ちゃんと考察しようとか考えるといつまでも更新しないので、気になったこと、感想等を簡単にまとめることにします。

簡単に、というのは、とりあえず打ち込んでいるので、まとまっていないということです。長いですので、目次を見て気になったところだけでも見ていただければと思います。

 

引用:黒字

共有したい疑問:青太字

その他感想等:青字

 

 

 

特集1 学びは遊び、遊びは学び

○西田佳「学校に“遊び”に行こう!」

 

行き着く先を冒頭に示すのは、子どもたちにとってわかりやすいでしょうが、そこにワクワク、ドキドキしたりという「おもしろみ」はイメージしにくいです。

 

 ↓

 

優先すべき「わかりやすさ」とは? そして、それは本当に優先するべきか。

①学習内容のわかりやすさ

 本文ではこれについて触れられていたと思います。何かを理解させるために、何をやるのかを明確にするということは、確かにわかりやすいプレゼンの仕方などでよく聞くことです(最初に目次を提示するとか、大学生ならよく言われると思います)。

 ただし、この方法はあくまで「わかってもらう」ことが最優先だからこそ使えるものです。授業でこれをやると、西田さんの指摘するように、「おもしろみ」に欠けます。

 先が読めることでかえって先生の話を聞かなくなる子もいるでしょう(私はそういう生徒でした。今もそういう大学生です)。中身の分からないブラックボックスだからこそ興味を示す、というのが人間として自然な気がします。

 

※友人が知り合いの先生から聞いた話では、児童は「本当に中身予想できないものだと、かえって興味をなくす」そうです。実際の難易度はともかく、なぞなぞのような「解きやすそうに見えるけどわからないもの」が、児童生徒の興味を得られるのかもしれません。

 

 当然、興味を示さない授業の理解度なんてたかが知れています。わかりやすい授業でも聞いてもらえないと意味がありません。聞く側に「聞こう」という意思がある可能性の高いプレゼンはともかく、特にそういう意識の高いわけでもない授業では、わかりやすさだけを追求しても足りないでしょう(少なくとも、授業受けてきた気持ちとして)。

 

 (話のわかりやすさ)×(聞き手の話を聞く姿勢)=(実際の理解度)

 

わかりやすさは程度の問題ですから、(話のわかりやすさ)≧1

しかし、話を聞く姿勢は、0になるかもしれないです。

どんなにわかりやすくても、聞いてもらえないと理解度は0です。仮に児童生徒にわかってほしいとしても、興味・関心を高める授業でないといけないと思います。

 

 

②流れのわかりやすさ

 (西田さんはこのことに触れていなかったと思いますが)一部の方は授業の「流れ」をわかりやすくするために、授業パターンを統一した方がいいと考えているのではないでしょうか。発達障害の児童生徒に限らず、児童生徒の一部には先を見通せないことから生まれる不安や苛立ちによって授業に集中できていません。

 ちなみに、私はこれによって集中できない方の人間です。今何をやっていて、この後何をするのかわかっていないと、結構イライラします。イライラすると、先生の話が入ってきません。

(勝手な偏見ですが、これに共感できる方は長距離走とか苦手だと思います。あと、体育とかでよくある「5分ランニング」も、自分が時計をもっていないと終わりがわからないため、そもそも真面目に走ろうという気持ちが起きないタイプの人間では…?)

 

 授業への不安やストレスを軽減すること自体は、考慮するべきことのはずです。ただ個人的に、自分が不安に感じない人間は、他人がそう感じていることに気づかないのだという経験がありますから、教育関係者の方にはもう少しに気にしてほしいと思っています。行き当たりばったりの授業が悪いとは考えていませんが、見通しを持たせたい人もいるということです。

 

 さて、では、やっぱり冒頭に授業の流れやゴールを提示するのがいいことでしょうか

大半の場合は効果があると予想します。不安やストレスの原因が本当に「先がわからないこと」であれば、それを直接解消しているのですから、不安やストレスは当然なくなるでしょう。

 

※少なくとも、冒頭に提示するだけが絶対的な方法ではありません。たとえば長距離走であれば、校庭10周と指示をするだけでなく、10個の何かを身につけさせて、1周するたびに減らしていく等、現状をわかりやすくする工夫が考えられます。知的障害児への教育等を見てみると、通常の学級でも児童生徒のためになりそうな工夫が見つかります。一つの手法にこだわるのは、いずれにしても得策ではないとは思います。

 

 ただし、不安やストレスが無くなったからといって授業に集中するかは別問題ですよね。あくまで、不安がなくなっただけですから。また、そもそも、人間、不安があっても集中するときは集中します(例えば、映画を観ていて、先がわからないからといって不安になったりイライラしたりしないでしょう)。①のときと同じ話になりますが、やっぱり面白いかどうか、ということが大事なのではないでしょうか。

 

f:id:kamenridernaruse:20200506194210j:plain

 

 面白ければいいとは思いませんが、不安を取り除こうとするときは、それで本当に児童生徒が授業に集中して、内容を理解してくれるようになるのか考えないといけません。

 

 

補足しておくと、そもそも授業ってわかりやすくないといけないのか、という議論も必要ですよね。

 

「学校は後の社会に必要な資質・能力・学力を「確実に」身につけるための場所になりつつあるのです」

 

学校は、社会適応のための訓練施設なのか。それよりももっと、優先して教えることがあるのではないでしょうか。

仮に優先して教えることなんてないと考える教師(志望者)も、その方法が適切かは一緒に考えたいですね。

 

 

遊びは子どもを育てる。遊ぶ中で子どもたちの社会性が育まれ、遊びを通して想像力や発想力が耕されます。「子どもは行事で育つ」。子どもたちの人格の成長を考えるとき、そぎ落されてきた学校行事に多分に含まれる遊び的要素に、大きな教育効果があったことを物語ります。

 

 

 ↓

 

学校行事は本当に必要?

 

③社会性、想像力や発想力

 

 個人的には、どんなに学校の成績が低くても、社会性があればいいと思っています(といっても、社会性を育てようと思ったら、最低限の国語、算数、社会、家庭の指導は必要だとも思いますが…)。

成績が良くても人を馬鹿にしたり、実害を与えたりするような人がいます。それが許されるような社会の雰囲気さえ感じ取れます。

 

できないのは自己責任。できるのは本人の努力。努力したのだから、努力しなかった人間を馬鹿にしても良いのでしょうか。

しかし、現実は逆です。努力してきた人たちは、もちろん努力してきたことを認められるべきですが、一方で家庭を含めた環境の恩恵があるのです。

 

塾に行けるということ自体が、行けない人に比べて有利になる世の中です。大学も奨学金で通っているし、塾にも行っていないという大学生もいるでしょう。ただ、世の中には奨学金でもどうにもならない人もいます。塾に行けないどころか、学校以外では勉強する時間も場所もない。そういう人だっています。

 

自戒も込めています。私たちは、知らないことを想像するのは難しいかもしれませんが、それを想像するだけの力ももっていないのかもしれません。自己責任を語るときは、相手の立場を考えるだけの想像力を働かせないといけません。

 

環境に恵まれているのだから、感謝しろとかそういう話をするつもりはありません。ただ、何も考えずに学歴社会を戦ってきた人は考えないといけないと思うのです。

 

 能力が高い人間であれば、本人も周りも幸福になる可能性は高いのかもしれません。しかし、一部の人間のみが幸福になったり、一部の人間を不幸にしたりする社会に対し、教育によって幸福になる側の人間を育てようとするよりも、その不平等な社会を変える方に教育しようとは思いませんか? 逆に、この社会で勝ち抜くために学習するのではなく、この社会を変えるために学んでみてもいいのではないかと、このごろ考えています(考えて、ちゃんと勉強していますよ…、す、少しだけ)。

 

「使える人間」がほしいといった産業界の要望があるのかもしれませんが、そもそも、お互いに使える人間である必要はないですからね。別に使える人間になりたいと思う人を止めたりもしませんけれど。

時代のニーズに合わせて教育内容が増えていきますが、本当にその傾向は正しいのでしょうか。

 

④学校行事の必然性

 

ちなみに、想像力を補うのが知識です。想像力が豊かな人間は、少ない情報でいろいろなことを考えることができると思いますが、正確さに欠ける場合もあると思います。それを確認する上で知識は必要です。そもそも、知っていれば想像する必要がありませんから。だからといって学校教育で詰めこむ必要はないです。本やインターネットを含めて、情報があふれている時代ですから。

 

さて、そのうえで、学校行事は本当に社会性、想像力や発想力を育むのか考えたいです。今、図書館に行けないので、実例が少なくて困っていますが、実体験としては正しいように思います。

 

行事(特に運動会、合唱祭、文化祭等)は、協働して取り組みますし、準備の段階で本番がどのようになるのか常に考えたり、本番を成功させるために様々な策を練ります。あの経験が無ければ、今のように新しいことに立ち向かったり、誰かと協力したりできないと思います。逆に、知識は最低限必要だとは思いますが、学校の授業だけでは、経験の幅が狭く、他者との協働は難しいように思います。

 

ただし、学校行事が無かったら本当に身に付かないのか、学校行事以外に方法はないのか、と言われると、微妙です。部活動もそうですが、基本的に他の方法があると思います。

 

 

コロナの中で、学校行事はどうなるのか?

そして、今はその別の方法も考えないといけないのかなと思います。というか、それもあって、この記事を優先的に投稿しました(実はこれが本題…!?)。

 

コロナに関する休校で、おそらくほとんどの学校で行事が縮小すると思います。再開しても、休校の間の授業を急いで終わらせることになりますから、行事をやる時間、準備にかける時間は取れないと予想されます。

 

そもそも、学校の授業を本当に優先するのか、という点については、すでに述べた通り、もっと大事なことがあると考えています。ただし、現実はそうはいかないはずです。学習指導要領や受験など、制度の方が変わらない限り、教師は内容を網羅しないといけないですし、児童生徒は学習するしかないですからね。

 

となると、やはり行事は縮小することになると思いますが、その際、行事を通して育まれるはずであった資質・能力はどうなるのでしょう。行事に含まれていた教育的価値を、児童生徒は奪われたことになります。

 

そもそも、シンプルに、ほとんどの児童生徒は行事が好きですし(私は、高校生のとき、体育祭が嫌いでした。同じようにラッキーだと思う人もいるでしょうが)、教師も含めて多くの人がやりたいと願っているはずです。

 

もし、問題が密を避けるだけなら、むしろ行事を開催する方法はいくらでもあったと思います。繰り返しになりますが、授業時数との関連を考えると、優先されるのは授業だと思います※。

 

いずれにしても、学校(教師)の負担を増やすのはよくありません。休校の間の授業時数、内容について、今も準備をしているはずです。

 

学校外で、それこそ暇な大学生にできることはないかなと考えていたのですが、思い付かず。この記事を読んだ人にご意見をいただきたいと思っています。

 

私にできそうなら、チャレンジしてみたいですしね。ただ、人が集まるイベント系はできないですが。密ですから…。直接集まらないけれど、学校行事の代わりになる体験。果たしてこの世にそんなものが存在するのでしょうか。

 

※制度的に、行事って全て中止にしても問題ないですよね? 授業時数として定められているのは学級活動のみだったと記憶しています。間違いがあったら教えてください。

 

 

最後に

「測定可能なものを学力に」は教師が把握しきれない子どもたちの成長・発達をあくまで前提としつつ、少しでも確かな学びをという願いによって生み出されたはずです。しかし、学力テスト体制が貫徹するいまの学校では、この言葉は一人歩きしてしまっています。

 

学びの中に遊びを、遊びの中に学びを。子どもも教師も、「明日も学校に“遊び”に行こう!」。そんな学校にしていきたいです。

 

西田さんの文章からは、学力テスト体制への批判(学力テスト自体は批判していない?)と、それに伴う遊びのない学校教育への提案が読み取れます。教育の本質を問う、本特集を読み解く視点になりそうです。まだ、読んでいない方は、わずか2ページですので西田さんのところだけでも読んでみてほしいです。

 

 

また、読んでいない方も読んだ方も、「学びは遊び、遊びは学び」についてのご意見、ご感想をお願い致します。特に、私の感想等に対しても、思うところがあればお気軽にコメントしてください。

 

知り合いの方にも紹介してくれると嬉しいです(仮面ライダーの記事もありますが、気にしないでください。教員採用試験の勉強が落ち着きましたので、月刊誌『教育』に関する記事を増やしていく予定です)。

 

仮面ライダーゼロワン×「夢」を哲学④ 滅亡迅雷net.の今後

  

 

急遽ヒューマギアの夢についても触れていくことにしました。

最後の総まとめのために必要なのと、語れるくらい内容が濃いと判断したからです。

気になるところを読んでみてください。

 

ヒューマギアたちの夢

ジーペン「僕が考えた漫画を描いてみたい」

 

ヒューマギア、ジーペンは「僕が考えた漫画を描いてみたい」という夢を語りました。

そして、彼を雇っている石黒先生(漫画家)は「彼に描かせてみたい」という夢を持っています。

 

ジーペンはもともと漫画家である石黒先生がアシスタントとして雇ったヒューマギア。

 

当初の石黒先生は自分で描かず、ヒューマギアに全ての作業を任せていたが、或人と交流し改心。昔のように情熱をもって自分で描くように。その後、作中では書かれないが、機能停止するまでの間、ジーペンは先生のアシスタントとして漫画を描いたりアイデアを提供したりしていた。

 

子どもが将来「漫画家になりたい!」と言うのと同じような雰囲気を感じます。

しかし、一方で、実際に働いてから自分の漫画も描きたいと思っている点で、子どもの夢とは違います。

 

日本のキャリア教育では、職場体験学習(2日くらいの短いもの)やインターンシップが中心で、実はそんなに職業のことを知らずに夢を語らせます

 

ただ、ジーペンのように、アシスタントとして働くようになってから自分のやりたいことが見えてくるのが自然な順番な気がします。わからないものを語れと言う方が、無理があります。

 

また、実際に働いて実力を見出されているからこそ、ジーペンには支えてくれる人も、能力発揮の機会も用意されました。子どもが夢を語るとき、人脈が無かったり、残念ながら実力が追い付かないこともあります。

ジーペンは恵まれていて、それを勝ち取ったのは彼自身の努力です。働いて、得たものです

 

失敗するかもしれなくても、最初は自発的でなくても、まずは活動してみることで活路が開ける、そんなことこそキャリア教育では伝えるべきなのかもしれません。

 

デルモ 「東京ファッションコレクションでのランウェイを今年も歩くこと」「そして、私自身を表現する」

ヒューマギア、デルモの夢は「東京ファッションコレクションでのランウェイを今年も歩くこと」「そして、私自身を表現する」ことです。

 

デルモは、モデル型ヒューマギア。SNSのフォロワーも50万人を超える人気モデルであったが、一時機能停止。32話で再起動する。自我が芽生えていて、感情豊かなうえに、自分の存在(ヒューマギアであること、モデルであること)に誇りを持っている。

 

この、“私自身”という言葉には、ヒューマギアであること、モデルであることを含んだアイデンティティの確立を感じます。

自分が自分らしくあるために、それを表現するためにモデルを続けているように思います。

 

ジーペンの夢と比べると、少し大人びている気がしませんか?

ヒューマギアとして自我が芽生える(シンギュラリティに達する)タイミングの違いが感じられます。

つまり、ジーペンは自我が芽生えたばかりの子どもなのです。(ロボットなので仕事もできるし見た目も大人ではあるが。)一方のデルモは、少なくとも大学生以上の年齢くらいまで成長していると考えられます。

 

自分の存在や夢について考えている時間が異なっています。より深く考えている分、デルモの夢からは、目標の理由を掘り下げた“目的”も言葉にされています

 

あくまで、彼女の目的は「自分を表現すること」です。ジーペンはまだ、なぜ自分が漫画を描きたいのか、ということまで言及していません。

同じように夢をもったヒューマギアでも、この2人には決定的な違いがあります。

 

 

 

ヒューマギア亡「ヒューマギアの夢を叶えたい」「夢を見つけたい」

亡は、ヒューマギアですが、すでにその身体は破壊され、データのみが不破さんの中に残っています。

天津社長の「道具」として働いてきたヒューマギアでしたが、32話で反旗を翻しました。

kamenridernaruse.hatenablog.jp

 

これは展開としても、考察するにも面白いです。

デルモ、ジーペンと違って、夢を見つけていないけれど自分の意思を手に入れました。実はイズも同様で、夢を見つけてはいません。

これは、夢を見つける以外にも、ヒューマギアに自我が芽生える可能性を示しています。

イズは或人を、亡はヒューマギアを支えるという決断をしています。

 

また、亡は不破さんと同様に、いつかは夢を見つけるというつもりで今を自分らしく生きようとしています。

 

亡は、イズの支えるという気持ちと、不破さんの夢を見つけようという意思と重なる存在です。

 

ちなみに、誰かの夢を支えたい、守りたいっていうことが夢な人もいれば、これから夢になることもあるかもしれません。

ちなみに、ヒューマギア:ラブチャンは、「グランドスラムを目指す選手を支える、世界一のコーチになる」という夢を見つけました。誰かを支えるということが一つのアイデンティティであれば、彼は単にコーチ(型ヒューマギア)として夢を語るのではなく、心の底から夢を語っていることになります。

 

そういった意味で、亡の夢も、本編のなかで見つかるかもしれません。

 

 

仮面ライダー滅(滅)「アークの意志のままに」

そして、滅亡迅雷net.でまだ取り上げていなかった滅の話をします。

滅は、仮面ライダー滅に変身するヒューマギアです。

 

そもそも滅亡迅雷net.は、人間を滅ぼすことを目的としてヒューマギアを戦力としてコントロールしようとしました。それはすべてアークの導き出した答えでした。

 

滅は「アークの意志のままに」と言って、一度は迅の身代わりになって活動停止します。

今は、再起動していますが、相変わらず「アークの意志のままに」動いています。そのため、夢はないのでしょうが、不破さんや亡とも違った立ち位置にいます。

 

そうなると、滅には自分の意思がないのかと気になります。

 

個人的には、滅はシンギュラリティに達している(自分の意思はある)のではないかと思います。

まず、そのように考えたきっかけは、迅が滅には「夢を見つけよう」とは語らないからです。

迅にとって「滅は自分の意思で動いている」と見えているのではないでしょうか。

 

このように考えたうえで滅について振り返ると、滅には迷いがないことがわかります。

純粋無垢な迅が「滅が言うなら」「アークが言うなら」と従っていたのとは違い、アークが合理的な決断をしていると、その内容を理解した上で従っているということです。

 

これは、迅の身代わりになったときも、迅をそもそも育てていたことも、その理由を説明できていることからわかります。

 

反対に迅は、或人と対決したときに、人間を滅ぼす目的について「知らないよ」と答えています。

 

また、不破さんとの会話から、アークに人間の悪意を学習させたのが天津だと知ると、珍しく怒りを見せました。

人間に近い感情を持っているということがわかったシーンです。というか、このときアークとの接続は切れていますから、相当自発的に行動できることが分かります。

 

滅からすると、これ以降、アークの意志を聞く必要はないはずです。そもそものアークのラーニングが誤っているのですから。

 

しかし、その後も滅はアークの意志のままに動きます。滅にとってのアークは、ヒューマギアの行動を決めるだけの能力をもった人工知能です。

(アークかゼアに接続していなければ、ヒューマギアは自分の意思で動けないと迅に指摘したのは滅びです)

 

自分で動くことが可能なはずの滅は、ヒューマギアはアークに接続すべきだと考えています。

これはつまり、滅は、自身は「合理的な行動選択に関し、アークに頼る」と決めていて(人類滅亡は滅自身の目標)、ヒューマギアは「自分の意思も持たず行動も決められないからアークに接続するべき」と考えていると受け取れないでしょうか。

 

滅は人類滅亡のために、アークの決定こそ最も合理的だと思っている。そして、すべてのヒューマギアは、アークに接続することでしか生き残れない。だからこそ、滅亡迅雷net.は必要。あくまで予想ですから、滅がどうするのか、34話が楽しみです。

 

 

最後に、滅の「夢」について考えたいと思います。

私は、滅は夢をもたない存在としてあり続けてほしいと考えていました。

子どもが観る仮面ライダーにおいて、「夢」こそが大事という安易な世界観であってほしくないからです。

 

「夢」を持たなくったっていいでしょう。そう言えるキャラがいてくれないと、夢を必要ないと思っている人や、持っていない人が排除されてしまいます。

 

学校で、夢を発表する。そんな課題が出たとき、夢を語れない人は、どうなるでしょう。課題ができない劣等感を抱くのでしょうか、課題ができないことで周りから非難されるでしょうか。

 

滅のような人は多いと思います。

会社の上司に従う人。

自分の目的がないときは、亡のように誰かの夢を支えたいと思うかもしれません。

しかし、仮に目的があっても、それを達成する手段がわからないとき、もっといい手段があるとき、それを持つ人の意思のままに動くこと、これは夢と同じくらい立派な決断ではないでしょうか。

 

しかし、刃が夢を持たないキャラとして描かれるようなので、滅も何らかの夢を語るのかもしれません。

いや、すでに滅が自分の意思で動いていることを示してきましたから、彼自身にはやはり目標や目的(夢)があると思います。

 

「滅の生きる道」。この言葉の意味するものは…?

 

仮面ライダーゼロワン33話感想

 

やっぱり、不破さんの記憶は偽物でしたね。自分がTwitter等を見た限りでは、気付いている人はいなかったですが、意外とみんな気付いていたんですかね。

アークに偏ったことを学習する天津なら、不破にも同じことをしていておかしくないと思いましたが、本当にやっていたとは…。

 

さて、今回の注目ポイントの一つは、ヒューマギア:ラブチャンです。

圭太くんの夢「プロテニスプレイヤー」を叶えることが、ラブチャンの夢(ヒューマギア→人)でした。

 

石黒先生とジーペン(仮面ライダーゼロワン31話)の関係とは逆の構図です。石黒先生は、「ジーペンに漫画を描かせてみたい」(人→ヒューマギア)でした。

 

両者の決定的な違いは、相手の気持ちですね。圭太くんは、自分がプロテニスプレイヤーになることを心の底から望んでいたのか、怪しかったです。

自信がなかったのもありますが、そこをラブチャンと不破さんが「夢を持とう」「夢を信じろ」と詰め寄りました。年頃の子どもからしたら恐怖ですよね。

 

ジーペンは自分で描くことを決めましたが、圭太くんは反対にラブチャンの夢を拒否しました。

 

今回のように、他人に変わることを要求する夢はときに不安定です。

相手が乗り気でないこともしばしばです。相手の意思を尊重した結果、自分の夢が達成されないこともあるでしょう。

 

ラブチャンは、「グランドスラムを目指す選手を支える、世界一のコーチになる」と、最後に自分の夢を見つけ、圭太くんも「それは叶うと思う」と返しました。

 

誰かのことを思いやる夢が悪いわけではありませんが、あくまで「自分がどうしたいか」ということ、そして他者を支えるとき、あくまでその人の意思を尊重することが大事だと教えてくれる話でした。

 

 

もう一つの注目ポイントは刃唯阿です。

ついに辞職しました。

 

「これがわたしの辞表だ」(鉄拳制裁)

 

正規の手続きはしっかりと踏んでほしいとは思いましたが、生身の天津が制裁される初めての回でした。

 

(殴られる方の演技もいいですね。あの表情。)

天津さんは、「夢の実現のためには手段を選ばない」と明言しましたが、そのために不破の夢を、刃のテクノロジーをもてあそんできました。天津自身も夢を追う者でありながら、やはりそのやり方は卑怯です。殴られても良いとは言いませんが、味方が減るのは納得です。

 

「想いはテクノロジーを超える、らしいぞ。」

 

不破さんもいたとはいえ、性能的にサウザーに劣っていた状態で、勝利しました。まさに、想いの勝利です。

 

刃さんと不破さんの考えがわかる重要な回でしたので、その他の考察は、以下の記事に追記しておきます。

kamenridernaruse.hatenablog.jp

 

 

仮面ライダーゼロワン32話感想

亡と不破さん、かっこよかったですね。

 

「俺たちは、道具じゃない!」

 

亡が天津垓の命令に反抗しましたね。シンギュラリティに達したということでしょう。

 

思ったより、亡が本編に絡んでくるようなので、亡の「夢」についても考察したいですね。

「代わりにヒューマギアの夢を叶えたい」

「私はヒューマギアだけど、道具じゃない」

 

デルモの言葉で言うアイデンティティ(夢も含めて)をもつこと、それがヒューマギアのシンギュラリティなのでしょう。

 

デルモも、今までのヒューマギアのなかではワズ並みに感情豊かでした。

ヒューマギアであることにも、モデルであることにも誇りをもっていて、「自分を表現したい」という目的(誰の命令でもない)で活動していました。

この自分を表現する中に、ヒューマギアを表現することが含まれていたと思います。

 

だからこそ、亡やイズへの影響も大きかったのでしょう。

 

 

さて、来週はついに刃さん、仮面ライダーに復活。

不破さんについても何か明らかになるみたいですね。

 

というか、滅と迅は亡の解放を目指していますが、チップがなくなると変身できなくなりますよね、不破さん。

 

あと、個人的に気になっていましたが、ヒューマギアに襲われた少年がたまたま生き残り、大人になってA.I.M.S.の隊長になるって出来過ぎですよね。

これ、本当は順番が逆で、A.I.M.Sの隊長になった青年に、仮面ライダーになるための手術を行い、その際ヒューマギアを憎む記憶をインプットされたのではないでしょうか。

 

そういう秘密が明らかになるのが次回かもしれません。

 

とにかく、仮面ライダーバルキリーの復活が楽しみです。

『教育』を読んでみて…自作物語「アマモニラ」

『教育』を読んでいて、教育にまつわる問題は根深いと常々感じています。

 

以前、妹尾昌俊先生のツイートを読んでいても感じましたが、それぞれの専門家や改革の提案者は、それぞれの良心や考えに従って新しいことを導入しようとしたり、今あるものを否定したりします。

 

時間はかかりますが、そのどれもを包摂するように制度を変えていかないといけないですよね。あとは、当事者自身の声を拾うことが大切だと思います。拾えるような仕事がしたいです。

 

 

さて、今日は

 

『教育』の3,4月号を読んで、考えたことをより多くの人と深めたいと思い、短いSF物語を書きました。タイトルは「アマモニラ」です。架空の星をテーマにしています。

 

drive.google.com

 

偉そうに、意見を書くのも変ですし、うまく伝えられるかも不安でした。なので、読んで何か意見が出そうなものとして物語にしました。

 

ぜひ、知り合いの方に広めてほしいのと、感想・意見を提供してください。

今、読書会ができていませんので、こういったネット上の議論を活発にしていきたいです。

よろしくお願いいたします。

 

(追記)あと、好きな歌を共有します。読んだ後に、この歌を聴くと、自分の価値観が伝わるかなと思います。

www.youtube.com

仮面ライダーゼロワン×「夢」を哲学③ 刃唯阿は夢を語れるのか(不破と刃の夢)

 

  

仮面ライダーバルカン(不破諫)「いつか見つけてやるよ」「ZAIAをぶっつぶす」

 

 不破さんは、飛電或人の姿を見て、敵を倒した後のことを考えるようになりました。

個人的には、ZAIAをつぶした後、その怒りの矛先をどこに向けるかが心配です。

ちなみに、前例は仮面ライダーバロン(駆紋戒斗)【仮面ライダー鎧武に登場】です。

 

 仮面ライダー鎧武では、ユグドラシルオーバーロードと敵が変わっていき、ライダーたちが共通の敵に対して共闘していきました。しかし、オーバーロードをすべて倒したとき、駆紋戒斗だけは、その怒りの矛先を世界に向けてしまいました。

 

 ユグドラシルが生まれたのも、この世界で強くならなければいけなかったのも、この世界に生きる人間たちが原因。今ある命を根絶やしにし、新しい命で新しい世界をつくる。

 

これは「夢」というよりも野望という言葉の方が近いかもしれません。しかし、駆紋戒斗という男は、間違いなく世界を憎み、そして自分や弱い人間のために世界を変えようしました。方法については、仮面ライダーゼロワン×「夢」を哲学②でも語ったように、卑怯な手であってもいけません。そして、できる限り犠牲を生んではいけません。

 

でも、まぎれもなく駆紋戒斗は「夢」を叶えようとした仮面ライダーでした。

 

 不破さんは似た境遇にいると思います。

人間の悪意を「アーク」にラーニングさせたのは、人間。そして悪意をもっているのも人間です。ライダーたちと世界を救った後、彼はどんな夢を語るのでしょうか。

 

「ヒューマギアをぶっつぶす」→「ZAIAをぶっつぶす」と目標を定めてきた不破さん。

これが「人間をぶっつぶす」に変わらないことを祈ります。

 

 夢について考えるために補足しますが、自分が人間を憎むからと言って人間を滅ぼそうとする考えは間違っているという話をします。

それはつまり、人間の可能性を信じている側の意見を聞いていないからです。答えを出すには、まだ思考が足りていません。仮面ライダーゼロワン×「夢」を哲学②で取り上げた「自分(たち)以外の立場を考える」ことが必要です。

 

しくはこちらから

仮面ライダーゼロワン×「夢」を哲学② 迅は或人と同じ世界を志すか(或人・迅・天津の夢) - kamenridernaruse’s diary

 

それでも、人間を憎むなら、何年かかってでも人間を変える方にいかないといけません。それが、別の「夢」を持つ人と共存する生き方だと思います。

 

自分の夢のために他人の夢を奪わない、これは理想論ですが目指す価値のあることです。自分の夢が尊重されるためにはまず他人の夢を尊重する必要があります。

 

ここではこのような結論にさせていただきます。いつか駆紋戒斗の考察をブログでまとめたいと思いますので、そこで話し足りないことを載せます。駆紋戒斗の理想は、私自身の理想と重なります。しかし、彼のやり方はあくまで仮面ライダーという物語のなかで、そして社会として否定されないといけません。そのための議論は、もっと時間を使いたいです。

 

そして、今後の仮面ライダーゼロワンを予想するなら「アーク」は少なくとも、不破さんを利用すると思います。

アークは、「人間を滅ぼす」という目的のため滅亡迅雷net.を生み出し、ヒューマギアを利用してきました。

 

しかし、目的が「人間を滅ぼす」ことであるならば、ヒューマギアを使うことは必然ではありません。人間を利用して人間を滅ぼしたっていいのです

不破さん自身の決断、アークの意志。それぞれどのような答えになるでしょうか。

 

2020/04/26追記)

不破さんが夢を見つけました。「仮面ライダー」が夢ということで、主人公より主人公みたいな発言です。形としての戦士ではなく、その器たる存在ということでしょうか。

アークに利用されるのでは? 等と考えていましたが、その心配はなくなりました。

 

「よく聞け、ZAIA。俺は変わった。あの記憶はもうどうでもいい。俺にはな、憎しみなんてもういらない! 今の俺には夢があるからな。」

「お前(刃唯阿?)がつくった仮面ライダーという夢が。」

 

不破さんが夢のためにどう動くのか。それを踏まえてまた考察していきたいですね。

 

 

仮面ライダーバルキリー(刃唯阿)「???」

 

 作中では、「道具」という言葉に反応するくらい、自分の意思で動くことを意識しています。プライドの高さ、戦えるだけの強さが本来の刃唯阿の魅力だと思いますが、彼女も人間だということを不破さんや私と同じ視聴者の方忘れていないでしょうか

 

 これだけ「道具」という言葉に過剰に反応するのも、今までの自分の行動は自分で決めたことじゃないかもしれないという疑念があるから。

不破さんと違って、彼女の「心の弱さ」が目立ちます。間違ってはいけないのは、女性だから弱いのではなく、人間らしく弱いのです

 

天津垓が人間の負の部分のうち「悪」を表現しているとすれば、刃は心の「弱さ」という負の部分を表現しているということです。

 違う言い方をすると、彼女くらい命を懸けて戦う者であっても、その心が傷つけられる瞬間、キーワードがあるということが作中で描かれています。

 

 さて、そんな彼女の「夢」は一体なんでしょうか

 そもそも彼女に夢はないと思っていましたが、不破さんの「本気の夢を語るまで」という発言を考えると、夢はあるけれど話せないのではないかと今は考えています。これから見つけるという場合もありますが…。

 

 いずれにしても刃が「夢」を語る瞬間がくるわけです。彼女は何を語るのでしょうか。難しいのは、刃というキャラによって描かれる「夢」は、「単純な性別を超えた人間的なもの」、「人間として一人の女性らしい幸せを描いたもの」のどちらもありえることです。

 

前者の場合、ZAIAに入った理由とも関連しそうです。技術職ですから、そういった技術全般に関する夢かもしれません

 

後者の場合、「結婚したい」が一番想像しやすいと思います。これは別に女性は仕事しなくていいとか、闘わなくていいという話ではなく、むしろ刃さんは闘うことになってでも幸せになりたいという予想です。あくまで結婚は例示ですが、皆さんが女性らしいとわかりやすく(物語ですから)思うものになるかもしれません。

 

「技術」(仕事)か「結婚」(恋愛)のどちらかかなと思います。

後者であっても納得できる理由はすでに提示しましたけれど、他のキャラの「夢」と並ぶことを考えると、前者の夢が語られると思います。

 

 しかし、この夢を語るときは刃さんが己の罪を認めるか、誰かが刃さんの弱さを認めたときでないといけないと思います。あるいは両方が必要です。

 

 もちろん、人はなにかしら失敗をする生き物です。それがときに他者に迷惑をかけるものかもしれません。

そのときに、許してもらうためではなく、心の底から悪いことをしたのだという自覚から生まれる罪の意識、謝罪

この瞬間を省くと、いくら操られていたとしても、天津の悪事に加担したという部分が宙に浮いてしまいます。夢を語っても、誰も納得しなくなるでしょう。

(迅は、30話で或人と話しているとき、後悔が見えましたよね)

 

 そして、人は弱い生き物です。誰だって弱い部分があります。

刃は、プライドの高さからか、今まで強かったからか、その弱さを認めてもらえない状況にいます。

天津を出し抜くという展開も面白そうですが、登場人物全員が弱い部分を見せないというのは、弱い人の励みになる一方で、弱い人に「強くあらねばならない」という規範を与えてしまいます。

 

弱い部分があってもいい、なんなら弱くてもいい、それを認めた後にどうするかが大事。

「夢」を描く仮面ライダーゼロワンでは、ここまで語れる作品であってほしいという個人的な期待があります。

 

いずれにしても、仮面ライダーゼロワン32話以降の展開が楽しみですね。

 

2020/04/26追記)

「夢」を大事にしてきた他の仮面ライダーたちとは違い、「信念」を提示した刃(仮面ライダーバルキリー)。

 

「私に夢はない。でも、信念がある。技術者としての信念が。テクノロジーは人に寄り添ってこそ意味がある。」

「あんた(天津垓)は、テクノロジーで人の夢をもてあそんだ。私は、私はあんたを絶対に許さない!」

 

ヒューマギアはテクノロジーであり、“人に寄り添う”道具。暴走の危険があれば止めるし、破壊もする。反対に、暴走の危険が無ければ破壊しない。

 

天津にとっての道具とは、自分の思い通りになる物・者のこと。当然、ヒューマギアにも人にも自分に逆らう自我はいらないわけです。

刃にとっての道具は、人に寄り添うもの。この違いが、明確に描かれたのが33話でした。

 

これが、刃さんの今までの行動を説明する軸になりそうです。そして、テクノロジーで人の夢をもてあそぶことは、自分の信念に反する。強い想いで、ZAIAから離反しました。

この作品の人物はみんな心が強いですね。刃さんは、自分自身が道具扱いされてもギリギリまで耐えていました。

しかし、テクノロジーを自分の信念に反する形で使われたとなると、すぐに反旗を翻しました。

 

結局、彼女に夢はありませんでした。夢があるというつもりで書いていた記事だったので大半の内容がかみ合わなくなりましたね。しかし、夢とは違う信念。これも考察する意義のあるものです。しっかり考えてみたいですね。

そして、刃は今後、夢を持つことになるのでしょうか。