『教育』No.891①

読み終わっていましたが、全くブログを更新していませんでした。

ちゃんと考察しようとか考えるといつまでも更新しないので、気になったこと、感想等を簡単にまとめることにします。

簡単に、というのは、とりあえず打ち込んでいるので、まとまっていないということです。長いですので、目次を見て気になったところだけでも見ていただければと思います。

 

引用:黒字

共有したい疑問:青太字

その他感想等:青字

 

 

 

特集1 学びは遊び、遊びは学び

○西田佳「学校に“遊び”に行こう!」

 

行き着く先を冒頭に示すのは、子どもたちにとってわかりやすいでしょうが、そこにワクワク、ドキドキしたりという「おもしろみ」はイメージしにくいです。

 

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優先すべき「わかりやすさ」とは? そして、それは本当に優先するべきか。

①学習内容のわかりやすさ

 本文ではこれについて触れられていたと思います。何かを理解させるために、何をやるのかを明確にするということは、確かにわかりやすいプレゼンの仕方などでよく聞くことです(最初に目次を提示するとか、大学生ならよく言われると思います)。

 ただし、この方法はあくまで「わかってもらう」ことが最優先だからこそ使えるものです。授業でこれをやると、西田さんの指摘するように、「おもしろみ」に欠けます。

 先が読めることでかえって先生の話を聞かなくなる子もいるでしょう(私はそういう生徒でした。今もそういう大学生です)。中身の分からないブラックボックスだからこそ興味を示す、というのが人間として自然な気がします。

 

※友人が知り合いの先生から聞いた話では、児童は「本当に中身予想できないものだと、かえって興味をなくす」そうです。実際の難易度はともかく、なぞなぞのような「解きやすそうに見えるけどわからないもの」が、児童生徒の興味を得られるのかもしれません。

 

 当然、興味を示さない授業の理解度なんてたかが知れています。わかりやすい授業でも聞いてもらえないと意味がありません。聞く側に「聞こう」という意思がある可能性の高いプレゼンはともかく、特にそういう意識の高いわけでもない授業では、わかりやすさだけを追求しても足りないでしょう(少なくとも、授業受けてきた気持ちとして)。

 

 (話のわかりやすさ)×(聞き手の話を聞く姿勢)=(実際の理解度)

 

わかりやすさは程度の問題ですから、(話のわかりやすさ)≧1

しかし、話を聞く姿勢は、0になるかもしれないです。

どんなにわかりやすくても、聞いてもらえないと理解度は0です。仮に児童生徒にわかってほしいとしても、興味・関心を高める授業でないといけないと思います。

 

 

②流れのわかりやすさ

 (西田さんはこのことに触れていなかったと思いますが)一部の方は授業の「流れ」をわかりやすくするために、授業パターンを統一した方がいいと考えているのではないでしょうか。発達障害の児童生徒に限らず、児童生徒の一部には先を見通せないことから生まれる不安や苛立ちによって授業に集中できていません。

 ちなみに、私はこれによって集中できない方の人間です。今何をやっていて、この後何をするのかわかっていないと、結構イライラします。イライラすると、先生の話が入ってきません。

(勝手な偏見ですが、これに共感できる方は長距離走とか苦手だと思います。あと、体育とかでよくある「5分ランニング」も、自分が時計をもっていないと終わりがわからないため、そもそも真面目に走ろうという気持ちが起きないタイプの人間では…?)

 

 授業への不安やストレスを軽減すること自体は、考慮するべきことのはずです。ただ個人的に、自分が不安に感じない人間は、他人がそう感じていることに気づかないのだという経験がありますから、教育関係者の方にはもう少しに気にしてほしいと思っています。行き当たりばったりの授業が悪いとは考えていませんが、見通しを持たせたい人もいるということです。

 

 さて、では、やっぱり冒頭に授業の流れやゴールを提示するのがいいことでしょうか

大半の場合は効果があると予想します。不安やストレスの原因が本当に「先がわからないこと」であれば、それを直接解消しているのですから、不安やストレスは当然なくなるでしょう。

 

※少なくとも、冒頭に提示するだけが絶対的な方法ではありません。たとえば長距離走であれば、校庭10周と指示をするだけでなく、10個の何かを身につけさせて、1周するたびに減らしていく等、現状をわかりやすくする工夫が考えられます。知的障害児への教育等を見てみると、通常の学級でも児童生徒のためになりそうな工夫が見つかります。一つの手法にこだわるのは、いずれにしても得策ではないとは思います。

 

 ただし、不安やストレスが無くなったからといって授業に集中するかは別問題ですよね。あくまで、不安がなくなっただけですから。また、そもそも、人間、不安があっても集中するときは集中します(例えば、映画を観ていて、先がわからないからといって不安になったりイライラしたりしないでしょう)。①のときと同じ話になりますが、やっぱり面白いかどうか、ということが大事なのではないでしょうか。

 

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 面白ければいいとは思いませんが、不安を取り除こうとするときは、それで本当に児童生徒が授業に集中して、内容を理解してくれるようになるのか考えないといけません。

 

 

補足しておくと、そもそも授業ってわかりやすくないといけないのか、という議論も必要ですよね。

 

「学校は後の社会に必要な資質・能力・学力を「確実に」身につけるための場所になりつつあるのです」

 

学校は、社会適応のための訓練施設なのか。それよりももっと、優先して教えることがあるのではないでしょうか。

仮に優先して教えることなんてないと考える教師(志望者)も、その方法が適切かは一緒に考えたいですね。

 

 

遊びは子どもを育てる。遊ぶ中で子どもたちの社会性が育まれ、遊びを通して想像力や発想力が耕されます。「子どもは行事で育つ」。子どもたちの人格の成長を考えるとき、そぎ落されてきた学校行事に多分に含まれる遊び的要素に、大きな教育効果があったことを物語ります。

 

 

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学校行事は本当に必要?

 

③社会性、想像力や発想力

 

 個人的には、どんなに学校の成績が低くても、社会性があればいいと思っています(といっても、社会性を育てようと思ったら、最低限の国語、算数、社会、家庭の指導は必要だとも思いますが…)。

成績が良くても人を馬鹿にしたり、実害を与えたりするような人がいます。それが許されるような社会の雰囲気さえ感じ取れます。

 

できないのは自己責任。できるのは本人の努力。努力したのだから、努力しなかった人間を馬鹿にしても良いのでしょうか。

しかし、現実は逆です。努力してきた人たちは、もちろん努力してきたことを認められるべきですが、一方で家庭を含めた環境の恩恵があるのです。

 

塾に行けるということ自体が、行けない人に比べて有利になる世の中です。大学も奨学金で通っているし、塾にも行っていないという大学生もいるでしょう。ただ、世の中には奨学金でもどうにもならない人もいます。塾に行けないどころか、学校以外では勉強する時間も場所もない。そういう人だっています。

 

自戒も込めています。私たちは、知らないことを想像するのは難しいかもしれませんが、それを想像するだけの力ももっていないのかもしれません。自己責任を語るときは、相手の立場を考えるだけの想像力を働かせないといけません。

 

環境に恵まれているのだから、感謝しろとかそういう話をするつもりはありません。ただ、何も考えずに学歴社会を戦ってきた人は考えないといけないと思うのです。

 

 能力が高い人間であれば、本人も周りも幸福になる可能性は高いのかもしれません。しかし、一部の人間のみが幸福になったり、一部の人間を不幸にしたりする社会に対し、教育によって幸福になる側の人間を育てようとするよりも、その不平等な社会を変える方に教育しようとは思いませんか? 逆に、この社会で勝ち抜くために学習するのではなく、この社会を変えるために学んでみてもいいのではないかと、このごろ考えています(考えて、ちゃんと勉強していますよ…、す、少しだけ)。

 

「使える人間」がほしいといった産業界の要望があるのかもしれませんが、そもそも、お互いに使える人間である必要はないですからね。別に使える人間になりたいと思う人を止めたりもしませんけれど。

時代のニーズに合わせて教育内容が増えていきますが、本当にその傾向は正しいのでしょうか。

 

④学校行事の必然性

 

ちなみに、想像力を補うのが知識です。想像力が豊かな人間は、少ない情報でいろいろなことを考えることができると思いますが、正確さに欠ける場合もあると思います。それを確認する上で知識は必要です。そもそも、知っていれば想像する必要がありませんから。だからといって学校教育で詰めこむ必要はないです。本やインターネットを含めて、情報があふれている時代ですから。

 

さて、そのうえで、学校行事は本当に社会性、想像力や発想力を育むのか考えたいです。今、図書館に行けないので、実例が少なくて困っていますが、実体験としては正しいように思います。

 

行事(特に運動会、合唱祭、文化祭等)は、協働して取り組みますし、準備の段階で本番がどのようになるのか常に考えたり、本番を成功させるために様々な策を練ります。あの経験が無ければ、今のように新しいことに立ち向かったり、誰かと協力したりできないと思います。逆に、知識は最低限必要だとは思いますが、学校の授業だけでは、経験の幅が狭く、他者との協働は難しいように思います。

 

ただし、学校行事が無かったら本当に身に付かないのか、学校行事以外に方法はないのか、と言われると、微妙です。部活動もそうですが、基本的に他の方法があると思います。

 

 

コロナの中で、学校行事はどうなるのか?

そして、今はその別の方法も考えないといけないのかなと思います。というか、それもあって、この記事を優先的に投稿しました(実はこれが本題…!?)。

 

コロナに関する休校で、おそらくほとんどの学校で行事が縮小すると思います。再開しても、休校の間の授業を急いで終わらせることになりますから、行事をやる時間、準備にかける時間は取れないと予想されます。

 

そもそも、学校の授業を本当に優先するのか、という点については、すでに述べた通り、もっと大事なことがあると考えています。ただし、現実はそうはいかないはずです。学習指導要領や受験など、制度の方が変わらない限り、教師は内容を網羅しないといけないですし、児童生徒は学習するしかないですからね。

 

となると、やはり行事は縮小することになると思いますが、その際、行事を通して育まれるはずであった資質・能力はどうなるのでしょう。行事に含まれていた教育的価値を、児童生徒は奪われたことになります。

 

そもそも、シンプルに、ほとんどの児童生徒は行事が好きですし(私は、高校生のとき、体育祭が嫌いでした。同じようにラッキーだと思う人もいるでしょうが)、教師も含めて多くの人がやりたいと願っているはずです。

 

もし、問題が密を避けるだけなら、むしろ行事を開催する方法はいくらでもあったと思います。繰り返しになりますが、授業時数との関連を考えると、優先されるのは授業だと思います※。

 

いずれにしても、学校(教師)の負担を増やすのはよくありません。休校の間の授業時数、内容について、今も準備をしているはずです。

 

学校外で、それこそ暇な大学生にできることはないかなと考えていたのですが、思い付かず。この記事を読んだ人にご意見をいただきたいと思っています。

 

私にできそうなら、チャレンジしてみたいですしね。ただ、人が集まるイベント系はできないですが。密ですから…。直接集まらないけれど、学校行事の代わりになる体験。果たしてこの世にそんなものが存在するのでしょうか。

 

※制度的に、行事って全て中止にしても問題ないですよね? 授業時数として定められているのは学級活動のみだったと記憶しています。間違いがあったら教えてください。

 

 

最後に

「測定可能なものを学力に」は教師が把握しきれない子どもたちの成長・発達をあくまで前提としつつ、少しでも確かな学びをという願いによって生み出されたはずです。しかし、学力テスト体制が貫徹するいまの学校では、この言葉は一人歩きしてしまっています。

 

学びの中に遊びを、遊びの中に学びを。子どもも教師も、「明日も学校に“遊び”に行こう!」。そんな学校にしていきたいです。

 

西田さんの文章からは、学力テスト体制への批判(学力テスト自体は批判していない?)と、それに伴う遊びのない学校教育への提案が読み取れます。教育の本質を問う、本特集を読み解く視点になりそうです。まだ、読んでいない方は、わずか2ページですので西田さんのところだけでも読んでみてほしいです。

 

 

また、読んでいない方も読んだ方も、「学びは遊び、遊びは学び」についてのご意見、ご感想をお願い致します。特に、私の感想等に対しても、思うところがあればお気軽にコメントしてください。

 

知り合いの方にも紹介してくれると嬉しいです(仮面ライダーの記事もありますが、気にしないでください。教員採用試験の勉強が落ち着きましたので、月刊誌『教育』に関する記事を増やしていく予定です)。