仮面ライダーゼロワン×「夢」を哲学② 迅は或人と同じ世界を志すか(或人・迅・天津の夢)
仮面ライダーゼロワン(飛電或人)「人間とヒューマギアが笑える世界」
飛電或人は、ヒューマギアの父親に育てられたという過去があります。
ヒューマギアは、データのバックアップさえあればいくらでも復活するという世界観のなかで、或人は、そのデータが消えたら人が死んだのと同じなのだ(彼自身の言葉は「ヒューマギアにも心がある」)と考えています。
この辺は、ドラえもんを道具と思うか、友達と思うか。という話と似ています。
ちなみに、ここで飛電或人は、ヒューマギアに命があるとは言いません。
ヒューマギアが他の道具と違うのは、命ではなく、心の有無であり、だから人と同じくらい大切にしたいということが彼の考えでしょう。
彼にとっては人間が大切にされるのも心があるからであり、単に命が守られるだけでなく、笑っていてほしい(その心を守りたい)と思っているように見えます。
だからこそ、彼はお笑い芸人を目指していましたし、社長になってからも、「人間とヒューマギアがともに笑う」ことを目指しています。
この辺の一貫性、さらに人間もヒューマギアも、どちらのことも考えている点で、実はかなり考えられた夢を語っていることがわかります。
しかも、この目標が達成されたとき、多くの人が得をします。彼は、社会に貢献しようとする意志を持っています。
夢と言っても、自分さえよければいいという夢は、周りから応援されません。
何かしらの目標がある人は、彼のように
目標が
①社会に貢献するものか
②自分(たち)以外の立場も考慮しているか
③一貫性があるか
といったことまで考えて、深めていけるといいかもしれません。
仮面ライダー迅(迅)「ヒューマギアの解放」
ヒューマギア迅の夢は、「ヒューマギアの解放」です。
ヒューマギアは、人工知能と接続して活動しています。物語を見るとわかりますが、ヒューマギアは「アーク」「ゼア」という2つの人工知能と接続しています。
ヒューマギアの解放とは、ヒューマギアが自らの意思で活動できるようになり(作中では「シンギュラリティに達する」と言われる)、「アーク」「ゼア」とも接続しない状態のことです。
迅の夢は、或人と違ってヒューマギアに寄っています。
彼自身がヒューマギアなのもありますが、実際に人間がヒューマギアを廃棄し始めたのを見て、「人間はヒューマギアを滅ぼす」存在だと思っているからです。
この点で、或人とは違った事実を根拠にして考えているのがわかります。
そしてタイトルの、迅は或人と同じ世界を志すか、ということについて。
迅はまだ人間をどうするか決めていないというのが自分の考えです。
人類滅亡は、本来「アーク」の導いた回答であり、「アーク」と接続していない今の迅は、人類について答えを出すほど思考できていないのではないでしょうか(判断材料も少ない)。
つまり、或人のときに提示した②自分(たち)以外の立場について、まだ思考できていないのです。
少なくとも迅は、まだヒューマギアのことしか考えられていません。
それは、人間がヒューマギアに与える影響をすべて考慮していない点から見ても、ヒューマギアのことを100%考えているわけではありません。
(夢を考える上では、複数の視点に立つこと自体が①の条件を満たすために必要ですし、また自分(たち)のことをすべて考えるには、影響を与える別の立場の人たちのことも考える必要があります。視点が自分のなかに留まっている限り、その夢は独りよがりなままです。)
彼が、或人と関わり、その結果、人類とヒューマギアの世界をどのように変えていこうとするのか。ヒューマギアの解放のためには、「人類は不要」だと結論付けるのか、それとも人類に対して何かを望むのか。それが今後の注目したいポイントの一つです。
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仮面ライダーゼロワン31話感想 - kamenridernaruse’s diary
仮面ライダーサウザー(天津垓)「ヒューマギアの廃棄」
彼は、徹底してヒューマギアを否定します。
その過去に何があるのか、まだ語られていませんが、彼自身は技術革命によって、人間が人工知能以上の知能を手に入れられると考えていることはわかっています。
この考えは、或人・迅とは対立するものです。迅がどのような結論を出すにしろ、或人と迅は、天津と対立することになります。
今、AIに仕事が奪われるかも、という話が出ている中で、彼は人間が生き残る技術を開発しようとしています。
(やばいのはこれらの技術を軍事利用しようとしていることや他人を道具扱いすることですが、これはまた機会があれば議論したいです)
天津垓と或人・迅の対決、今後も目が離せません。また、天津垓が、なぜヒューマギアを否定するのか、そういった過去が明らかになると、視聴者の考えも変わるかもしれません。
夢をかなえる上で
やはり卑怯な手は許せないという方もいるでしょう。
また、仮面ライダーゼロワンの世界に関して言えば、ヒューマギアと人間、どちらかが滅ぼされるやり方は正しいのでしょうか。
この辺について、さらに考えます。
或人・迅・天津、それぞれの目標。それ自体は、それぞれの考えとして尊重されるべきものです。
ただし、これがまるで「正義」であるかのように語ってはいけないと思うのです。
先ほどは①社会に貢献するものか考えようと言いました。
しかし、考えた結果は、あくまで自分がこれなら社会に貢献できそうというだけで、それは社会的に“正しい”ものであるということは言えません。
天津垓の主張の良くない点は、彼は一方的に自分が正しいと思い込み、他者を間違っていると決めつけている点です。
人間誰しも間違うかもしれません。そのときに、自分の考えを修正できるということが生きていくうえで必要ではないでしょうか。
そして、それが仮にどんなに正しかろうと、手段は正当化されることはありません。
結果論として、ヒューマギアが人間社会に不要で(自分に正義が)あったとしても、ヒューマギア(悪)を卑怯な手で排除することは到底許されない。それが少なくとも仮面ライダーのなかで描かれる正義の一つです。
(KAMEN RIDER DRAGON KNIGHT キット「結果は手段を正当化しない」
仮面ライダードライブ チェイス「仮面ライダーとロイミュード。互いに闘うしかないとしても、ブレン、お前たちのやり方はあまりに醜い。」)
最後に、人間とヒューマギア、どちらかが滅ぶようなやり方はやはり認められるべきではありません。
※仮面ライダーゼロワンを見ていない方は、ヒューマギアをAIやロボットと置き換えて読んでみてください。
人間が滅びるのを受け入れる人はいないでしょう。
では、ヒューマギアについてはどうでしょう。
私はあくまで、飛電或人の考えを推しています。人間の側に立って考えたとき、ヒューマギアが消防や医療に役立つ存在だからです。
夢物語ですが、ヒューマギアがいれば、いま騒動になっているCOVID-19の問題も解決できます。ヒューマギア(機械)は、ウイルスに感染しないからです(違うウイルスには感染するけれど)。
人に任せられないこと、でも人じゃないとできなかったこと。ヒューマギアは、きっと、誰かがやらないといけなかったことを代わってくれます。
お仕事5番勝負(人間とヒューマギアの対決)で見えたのは、どんなことにヒューマギアが役に立つのかということではないでしょうか。
ヒューマギアを無条件に使役するのは、人間の可能性を見ないことになりますし、廃棄するのはヒューマギアの可能性を見ないことになります。
人間とヒューマギアが共存するためには、互いにできることを見定める必要がありそうです。もし私たちがあの世界に生きているなら、5番勝負の内容をしっかりと考察する必要があります。
では、ヒューマギアの視点に立つとどうでしょう。
確かに人間が道具として生み出したのかもしれません。
しかし、彼らは自我を持っています。それが一時期、暴走の原因となっていましたが、その暴走を止められるようになった以上、自我をもった存在を消すことに熟慮が必要なのは間違いありません。
ともかく、仮面ライダーゼロワン、飛電或人・迅・天津垓の対立に注目です。
(仮面ライダーゼロワンを見ていない人も、なんとなく「夢」について考えてもらえたら嬉しいです。ご意見・感想、お待ちしています。)